帰国して、しばらく経った頃です。
撮りためた写真を、パソコンの画面でぼんやり見返していました。
知らない街の路地。
名前も忘れた店の軒先。
一枚ずつめくっていると、写ってもいない匂いや音まで、勝手によみがえってくるのです。
あの頃は、まさかこの時間が文章になるなんて、思ってもみませんでした。
書くことがないと思っていた自分
ブログを始めようとしたとき、最初につまずいたのは、書く中身のほうです。
自分には、人に読ませるようなものなんて何もない。
そう思い込んでいました。
ブログを始める前は、自分の経験に価値があると思わなかった
特別な資格があるわけでもありません。
立派な肩書きも、自慢できる成功話も持っていない。
あるのは、ただ長く生きてきた時間だけです。
その時間を、わざわざ文字にして人に見せる意味なんてあるのか。
正直、まったくピンときませんでした。
だから最初は、世の中の役に立つ情報を書かなきゃと、妙に力んでいたのかもしれません。
自分の中身ではなく、どこかから借りてきた知識を並べようとしていました。
当たり前の日常が、後から見ると特別だった
ところが、書きあぐねて昔を思い返しているうちに、おかしなことに気づいたんです。
自分にとって当たり前だった日々が、どうやら他人から見ると、けっこう珍しいらしいのです。
片道切符で知らない国に降り立って、帰る日も決めずに暮らす。
そんな生き方を、当時の私はごく普通のことだと思っていました。
でも、それを普通と呼ぶ人は、あまりいません。
何の変哲もないと信じていた日々の中に、自分だけの材料が転がっていたわけです。
昔の旅の記憶が文章になった
最初に文章になったのは、ずいぶん昔の旅の記憶でした。
忘れたつもりでいた景色が、書こうとした途端、驚くほど鮮やかに戻ってきたんです。
スマホがない時代、バンコクから始まった旅
私の旅が始まったのは、スマホもインターネットもない時代です。
頼れる地図は、ぶ厚い紙のガイドブック一冊きり。
両替のレートも、安宿の場所も、足で歩いて確かめるしかありませんでした。
最初に降り立ったのがバンコクです。
むわっとした熱気と、屋台の油の匂い。
空港を出た瞬間、それが体にまとわりついてきました。
右も左も分からないまま、私は人の流れに紛れて街へ出ます。
不安より、これから何が起こるか分からないワクワクのほうが、ずっと大きかった。
言葉は通じない。
行き先の当てもない。
それでも一歩進むたびに、世界が開けていくような気がしたものです。
カオサンロードで出会った人たちから学んだこと
安宿の集まるカオサンロードには、世界中から旅人が流れ着いていました。
見ず知らずの者同士が地図を広げ、情報を交換する場所です。
あの国境は、こっちから抜けたほうが早い。
あの町の宿は、値切れば半額になる。
誰かがどこかで仕入れた話が、また別の誰かへと手渡されていきます。
ネットの検索窓なんて、どこにもありません。
人の口から口へ、生きた情報だけが旅人を動かしていました。
その輪の中で、私はずいぶん多くのことを教わったものです。
写真に残った景色が、文章を書くきっかけになった
旅のあいだ、私はいつもカメラを持ち歩いていました。
観光名所ではなく、名もない路地や、そこで暮らす人の顔ばかり撮っていたのです。
帰国してから見返した、その一枚が文章の入り口になりました。
写真そのものは、ただの古い景色でしかありません。
でも眺めていると、写っていない前後の時間まで、いっしょに立ち上がってくるんです。
あの日、隣で笑っていた誰かの声。
足元の砂ぼこりの感触。
一枚の写真が、記憶の栓を抜くみたいに、言葉をあふれさせてくれました。
仕事で積み重ねた時間も記事になる
文章の材料は、遊びの旅だけではありませんでした。
食うために続けてきた仕事も、書けばちゃんと記事になります。
28年間の海外仕入れで見てきたもの
私は28年間、アジアを回って雑貨を仕入れてきました。
インドの問屋街、ネパールの土産物屋、タイの卸市場。
薄暗い倉庫で埃をかぶった品を掘り出し、値段を交渉して、まとめて日本へ送る。
それが私の日常だったんです。
その現場で見た景色は、旅行者として通り過ぎるだけではまず見えません。
売る側の事情、暮らしの手ざわり、土地ごとの商いの流儀。
数えきれない場面が、体の奥に沈んでいました。
商品だけではなく、人との関わりを書き残す
仕入れの記憶をたどると、不思議と品物より先に人の顔が浮かんできます。
値切ると本気で怒り、そのくせ最後は笑って握手を求めてきたインド人。
言葉もろくに通じないのに、身振りだけで気持ちが通じたトルコのオトコ。
商売の話をしていたはずが、いつの間にか家族の話になって、飯まで馳走になったこともありました。
狭い店の奥で、名も知らない香辛料の効いた料理をつつきながら、片言と身振りで笑い合った夜。
あれは仕事だったのか、ただの人付き合いだったのか、今となっては境目もあいまいです。
たくさんある商品のディティールは、時が経てば忘れてしまいます。
でも、その向こうにいた人とのやり取りは、いつまでも消えずに残っていました。
書き残すべきは、モノではなく、そこで交わした時間のほうでした。
時間が経って初めて見える価値
妙なもので、その時は何とも思わなかった出来事ほど、あとになって光ってきます。
渦中にいるあいだは、ただの日常でしかないからでしょう。
当時は普通だった経験が、今は自分だけの材料になる
片道切符の旅も、埃まみれの仕入れも、当時はただの仕事でした。
特別なことをしている、なんて感覚は少しもありません。
ところが時が流れ、あの時代そのものが遠くなった今、同じ経験をした人はそう多くない。
スマホを片手に旅する今の若い人には、そもそも味わえない時間でしょう。
人と同じではない時間を過ごしてきたこと。
それが、書き手としての自分のポジションになりました。
過去の出来事を振り返ることで見えてきたこと
過去を文章にする作業は、ただ思い出を並べるだけではありませんでした。
書きながら、私はあの頃の自分と、静かに向き合っていたのです。
なぜあの時、あんな選択をしたのか。
あの出会いが、その後の自分をどう変えたのか。
当時は気づけなかった意味が、何十年も経った今になってようやく形を見せてきます。
振り返るという行為そのものが、過ぎた時間に新しい光を当ててくれました。
これは決して嫌な感情ではありませんでした。
ブログは自分の経験を残す場所になった
そんなわけで、私にとってのブログは、情報を発信する場所ではなくなっています。
歩いてきた時間を、もう一度なぞる場所になったのです。
書くことで過去の時間がもう一度動き出す
文章にすると、止まっていたはずの記憶が、また動き始めます。
写真の中で静止していた人が、私の中で声を上げ、また歩きだす。
過ぎ去って二度と戻らないと思っていた時間が、言葉の中でよみがえる。
書くというのは、失った時間をもう一度生き直すことに、どこか似ています。
誰かに届く文章になる可能性がある
そして、自分のために書いたその記録が、思いがけず誰かの目に留まることもあります。
同じ時代を旅した人が、懐かしがってくれるかもしれません。
これから旅立つ人が、何かを感じてくれるかもしれない。
自分の引き出しにしまっていた時間が、画面を通して、見知らぬ誰かとつながっていく。
これには、ちょっと驚いています。
一人で書いていたはずの文章が、いつの間にか、誰かとの細い糸になっていました。
ブログを書き、ライターとして言葉を綴る今の私を支えているのも、その手ごたえなんです。
これから書き始める人へ
もし今、何を書けばいいのか分からず立ち止まっているなら、少しだけ聞いてください。
探している方向が、そもそも違うのかもしれません。
特別な経験を探す必要はない
人に語れるような体験なんて、自分にはない。
昔の私も、そう思い込んでいました。
でも、書く材料は、遠くへ探しに行くものではなかったんです。
もう、あなた自身の中に溜まっています。
華やかな出来事でなくてかまいません。
ただ過ごしてきた、その人だけの時間で十分なんです。
自分だけが知っている時間を書けばいい
あなたが歩いてきた道は、世界にひとつしかありません。
まったく同じ人生を歩いた人は、どこにもいないのです。
だからこそ、あなたが見てきた景色は、あなたにしか書けません。
うまい文章でなくていい。
自分だけが知っているその時間を、静かに書き留めてみてください。
今日も私は、昔撮った写真を眺めながら、まだ書いていない記憶を探しています。
60歳を過ぎて、今さらブログなんて遅いのではないか。 若い人がスマホひとつで発信している時代に、自分のような世代が何を書けばいいのか。 そう考えながらブログを立ち上げました。 でも、書き始めてみて気づいたことがあります。[…]